人生78年、19さんの熱き思い
message from the president
- ■「後は私に任せるか」。よき上司との出会い。
「後は私に任せるか」。昭和44年、大学新卒で希望に燃えて銀行に入社した1年後、支店長の人使いの粗さに失望し、「こんな上司の下では成長はない」と支店長に辞表を提出。それを耳にした域内支店を統括するブロック長Ⅰ氏のこの一言が私の社会人生活の再スタート。「向こう傷を恐れず、明るく颯爽と、正道を歩いていきなさい」と、I氏は自分が最も信頼する部下の率いる本店電子計算課に送り出してくれた。
以後、私はその教えを守り、自己研鑽に励み、ひたすら仕事に打ち込み、39歳で支店長に。新米支店長で最優秀店(約200支店中)に輝き、金融専門誌の地域貢献賞にも選ばれ、地方銀行協会等の研修で講師を務めたりもしました。
I氏とは、後に、他銀行に先駆けて、相互銀行から普通銀行転換を成し遂げた故・市川慶三頭取。自分と仕事にめっぽう厳しく、部下にはとことん愛情を注ぎ面倒見もよく、学閥を好まず努力閥を好み、上に立つ者の「指導力」と「判断力」と「決断力」を身をもって教えてくれた傑出の経営者でした。
- ■「あなたには適応力がある」。ゼネラリストの道をまっしぐら。
- 当時スタートしたばかりの電子計算課では、30歳のそこそこの直属の上司(後の故・草野武二監査役)に、「君はスペシャリストを目指すか?それとも、ゼネラリストを目指すか?」と問われ、即座にゼネラリストと答える。以降、コンピューター部門➡プログラム開発部門➡システム企画部門に配属され、9年間で当時最先端の技術と知識をマスター。その後、職員組合(労働組合)に5年間専従して、約200支店・3000名の組合員の職場環境、労務・福利厚生などを中心に組織と人間関係を学び、36歳で営業店に復帰(次長兼得意先課長)し、いよいよ銀行の本来業務の道を突き進むことになる。
53歳の時、「あなたには適応力がある」と故・新藤恒夫頭取の命により、銀行とは畑違いの東証上場の食品メーカー(味・塩コショウ、鍋スープのパイオニアでトップメーカー)に出向し、定年退職までの7年間、営業管理、新規・海外事業、危機管理などの特務担当として実務を積みました。創業以来60年間、一度も赤字を出したことのない優良企業の創業者(故・金澤俊輔氏)の経営ぶりやそれを支える後継者と経営幹部の仕事ぶりを見て直に学び、特に、「無駄金は使うな。活きる金はケチケチするな」との創業者の教えは今も私の経営支柱になっています。
- ■「本気でやれば、誰かが助けてくれる」。どこに行っても何とかなる。
- 60歳役員定年で退職した私は、「これからが人生。生涯現役でいたい」と、組織のしがらみのない世界で、銀行と食品メーカーで学んだことを、自分の責任で実践し、新たな道を拓こうと、全く異業種のラジオ放送局の関連会社でメディアを勉強した後、広告業界に飛び込み、恥を捨てて若手社員に教えを請いながら1年間で業界の業務をマスター。全国のテレビ局や新聞社を駆け回り、最後の4年間は、創業者からバトンタッチされた若手社長と二人三脚で安定した業務、経営・職場環境改善に取り組み、悪戦苦闘しながらも、一応の成果を上げてきました。
この12年間の体験で、「人はどこに行っても心構え一つで何とかなる。本気で働けば誰かが助けてくれる」と自信をもって語れるようになりました。
- ■「企業は人なり」。人財育成が企業の最大の課題
- この50年間、銀行→食品メーカー→メディア業界→広告業界と4業種4社で、ITシステム、労務人事、支店経営、営業推進・企画、経営企画、新規・海外事業など幅広い分野で携わり、曲がりなりにもその一翼を担ってきました。
国内は沖縄から北海道まで全国、海外はソウル・大連・上海・香港を中心に米国NY、LAにも一人で出向き多くの人と企業に出会い、多岐にわたって見聞を深め、金融・経済・中小企業経営全般に関する知見とノウハウを習得できました。海外で活躍する日本人、日本で活躍する外国人をみてグローバル経済社会の到来を知り、ITと語学力を駆使して活躍する若手社員と一緒に仕事しながら、「企業は人なり」と、人材育成の重要さと若い人たちの秘められた能力の高さを改めて痛感しました。
特に、中国や韓国の若い人達の積極進取のバイタリティと語学力(私が商談した人たちは少なくとも英語と日本語が話せました)には感心させられ、通訳を通してしか話せない私は、「これでは話にならない。商談に負ける」と脱帽でした。
- ■「生涯勉強」。70歳で独学で資格試験に合格
- 若手社員達が資格試験に挑戦するもなかなか合格できないのに業を煮やした私は、「そんなに難しいのなら私が取って見せる」と社員の前で公言。それから5ヶ月間、通勤電車の往復1時間、朝晩毎日各1時間、土日は図書館で5時間と集中して勉強し、合格率25%の旅行業務取扱管理者試験に3科目とも高得点で合格。
それまでも同様の方法で、将来必要と思った資格試験に一発合格。例えば、宅地建物取引士は36歳で、個人情報保護士(58歳で)と九州観光マスター1級(61歳で)は資格制度がスタートした第一回の試験に合格。
それらの資格は、直接的にはすぐに役に立たなくても、そこで得た専門知識はその後の仕事で大いに役立ちました。
- ■「人生まだまだこれから」。72歳で起業
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50年間、営業と経営の現場で数えきれないほどの失敗と成功を繰り返しながら、実践で習得してきた幅広い知見とノウハウをさらにブラッシュアップして、人の成長、企業の持続的発展、地域活性化のお手伝いができたらとの次のような熱き思から起業しました。
- 〇単なる評論・提案ではなく、現状をよく分析して、問題点と理想の状態を引き出し、その企業に合致した具体的な解決方法を提示し、クロージングまでフォローしてみたい!
- 〇自らも、時間・おカネかけて行動を起こし、販売促進の支援事業と人材育成の能力開発事業、SDGsや故郷応援のボランティア活動に取り組み、飛躍発展のきっかけをお手伝いできる実践家コンサルタントとして活動したい!
- 〇常に創造と変革を追求しながら、どん欲に自己研鑽にも励んで、ニーズに確実に応えられるように、誠心誠意、全力で取り組みたい!
- ■「苦難は妙薬なり」。78歳にして、健康の有難さを知る
- 今年7月初めのこと。突然、倦怠感が襲い、めまいや動悸、胸痛、腹部不快感、頻尿、不眠に悩まされ、体重も1ヶ月で8㎏と激減。外にも出れず(出る気力もなく)、じっと自宅療養。病院で検査を受けるも体に異常はなし。加齢とこの夏の暑さで、50数年の疲れがどっと出て体の変調をひき起こし、これまで大した病気もせず人一倍元気だっただけに心配しすぎて不安と恐怖感に陥り自分で病気を作っていたようです。
初めての経験で2ヶ月間苦しんだ挙句に、ダラリと下がった腕と腿の皮膚、痩せ細った顔を見て恐ろしくなり、「なるようにしかならん」と腹をくくり、意を決して、「毎朝30分のストレッチ体操」と「毎日30分の散歩」を始めたところ、少しずつ気も楽になり、体重も9月末には4kg増えて標準体重の64kgに回復。それから日に日に元気を取り戻しました。
「苦難は妙薬なり」。78歳にして、自分の弱さと健康の有難さを思い知らされ、いい勉強になりました。これを機に、生活や心にゆとりをもって、趣味やスポーツも楽しみながら、人生100年時代を生き生きと過ごしたい・・・と、6年間続けた会社を解散しました。
- ■「鈍と不易流行」。フリーな立場で情報発信
- 今年のノーベル賞を受賞された大阪大学の坂口志文特任教授(生理学・医学賞)と京都大学の北側進特任教授(化学賞)の座右の銘が「運・鈍・根」。私に足りなかったのは、「運(幸運に巡り合える出会いの力)・鈍(神経質にならず鈍いと言われるくらいどっしりと構える力)・根(物事をやり抜く粘り強さと継続する力)」の中の「鈍」だったようです。
これからは、生活にもっとゆとりをもって、「鈍」も心掛け、「不易流行」をモットーに知見を広げ、フリーな立場で、皆さまのお役に少しでも立てるような情報を発信して参りたいと思っています。
令和7年11月 新留 育郎 (通称:19さん)
プロフィール
profile
カワハギ(新宮港/福岡県)
19さん(田上允克画伯作)
HOSJAS企画 代表 新留育郎
【主な略歴】
- ■大手地方銀行(支店/本部、職員組合/副委員長を経て39歳で支店長、営業本部部長など歴任)
- ■大手食品メーカー (執行役員・取締役として営業管理部長、通販部長、海外事業等特務部長など歴任)
- ■FM放送関連会社(取締役として新規事業開発部長、ラジオ通販部長を歴任)
- ■総合広告代理店(取締役として経営企画室長、媒体部長など歴任)
- ■令和元年7月「HOSJAS企画合同会社」を設立し、CEO(代表社員)就任。地場企業の社外顧問、監査役、新宮町男女共同参画審議会副会長・会長など歴任(いずれも、令和7年8月辞任)
- ■令和7年8月HOSJAS企画合同会社を解散し、HOSJAS企画に名称変更
- ■ボランティア活動(現在、鹿児島県企業誘致サポーター、薩摩川内市シティセールスサポーター、福岡さつま川内会代表顧問、福岡可愛山同窓会代表顧問)
【主な資格】
- ■宅地建物取引士(昭和58年/36歳)
- ■個人情報保護士認定試験合格(平成17年/58歳)
- ■1級九州観光マスター検定試験合格(平成19年/60歳)
- ■国内旅行業務取扱管理者試験合格(平成29年/70歳)
【座右の銘】
【趣味・スポーツ】
- 美術鑑賞、ガーデニング、釣り(最近)、柔道(学生時代)